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だが、やつぱり戻らないで、しきりとこつちを見ながら行く。
練吉は路の傾斜のために自然とずり下りかけた自転車を引き上げようとして身体を動かした。そのはずみに、彼の横顔が房一のすぐ鼻先きにぐつと近づいた。練吉の頬はきれいに剃刀かみそりがあてられ、もみ上げから下の青味を帯びつるつるした皮膚にはこまかい汗がにじみ出ていた。そのとき房一は思ひがけなく練吉の匂ひを、髪や香油のそれではなく、何か練吉その人の匂ひを嗅いだ。
今、彼の目の前には大石医院の塀づくりの家が立つていた。その家は彼が借り受けたあの古びた家とふしぎに似通つていた。ちがふのはもつと大きやかで、手入れのよく届いていることだつた。築地の壁土は淡黄色の上塗りが施され、一様に落ちついた艶を帯びていた。そして、玄関に向ふ石畳は途中二つに分れ、右手は別建の洋風な診察所につづいていた。房一は瞬間どちらへ行つたものかと思つたが、左手によく拭きこまれた玄関の式台を見ると、まつすぐその方に進んだ。
「どうも、済んまへんでした」
房一は前の方を向いたまゝだつた。
と、一向にそんなことを知らない房一が云つた。
それは房一がこれまでに漠然と想像していた練吉とはかなりにちがふものだつた。以前見かけた練吉の学生服姿、その良家の子弟らしいつんとした近づき難さは、どこかにのこつていたが、或る柔い、善良さが今の練吉からは感じられた。
房一のまはりには三人の男が立ちかこんで、黙つて治療の様子を見まもつていた。背中をむき出しにして横向きに寝た男は、傷を洗はれるときに呻うめいた。血の気の引いたその顔にはどす黒い蒼白さが現れた。
房一は手足を洗ふと、簡単に診察着をひつかけて表へ廻つた。
だが、そのとき、この野心の塊かたまりのやうな若い医者に前もつてたゝみこまれていたさまざまな思案が頭をもたげた。この機会をのがしてはならないぞ、さう思ふのといつしよに房一は急に形をあらためた。
「やあ」
「いゝかね。あんたの身体はどこも悪くない」